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「埼浄青会報」第171号平成11年3月31日発行より転載。


稲荷山玉賞院
東源寺

由緒沿革

 埼玉の県北、江戸時代は中仙道の宿場町として栄え、明治時代の商業人・渋沢栄一の故郷として、また深谷ねぎの産地として知られる深谷市に当山・稲荷山玉賓院東源寺はあります。
 開創は、今から500年前の室町時代。文明18年(1486)に空蓮社真替上人によって開山・開基されました。
 本堂は幾度が火災に見舞われたということで、現在のものは江戸末期、文久3年(1863)三月第二十五世歓蓮社喜警信碩上人によって再建されたものです。御本尊は等身大の来迎阿弥陀三尊立像で、製作年代作者等不明とのことです。
 境内には地蔵堂があるのですがこれは江戸時代、正徳2年(1712)第十三世信蓮社単警圓端上上人によって、子供たちの健康を願う北向子育延命地蔵として深谷宿中仙道沿いに創建されたものを、大正初期になって東源寺へ移転してきたものです。かつては8月の24日に大祭が行われ、犬層な賑わいであったとも聞いていますが、現在では地蔵講も消滅してしまったために大祭はありません。しかし地蔵尊像は今でも皆が無事毎日を過ごせるようにと、静かに佇みつつ見守ってくださっています。

 また、山門前には市の文化財に指定されている「菊図坊祖英塚」があります。江戸時代の中期、石川県大聖寺生まれで、生涯を旅で送った俳人(禅僧)菊図坊が、縁あって東源寺の地蔵堂に居を構え深谷宿の人々に俳旬を指導していたのですが、ある時、辞世の旬を残して深谷宿から姿を消してしまったそうです。この塚は、その師を偲んで、弟子の祖山らが建立したものであり、塚の表には「菊図坊祖英塚」、裏にはその辞世の旬「我仏法に入りて風雅をさとり、風雅にもちつて仏法を悟る。死ぬことを知って死ぬ日やとしの暮れ」と書かれています。

(押野見孝道記)

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