本文へジャンプ



「埼浄青会報」第11号平成5年3月31日発行より転載。


瑠璃光山金宝院
三福寺

由緒沿革

小山なる るりこうざんのやくしぶつ この野のはての しずけさに坐す
あまたたび ここだの人のやすらいを ただ祈りつつ いくよへにけん

 当山は瑠璃光山金宝院三福寺と号す。大同元年(806)の開基になり、以来千八十有余年の星霜を経た古刹である。御本尊薬師瑠璃光如来はその霊験あらたなことで広く知られている。昔この里に小山宗仙という医師があり、深く薬師如来を信仰し茅舎に御本尊を安置して日夜その宝号を誦し懇禱していたが、里人の協力により草庵を建立して薬師仏をここにお遷し申し上げた。
 その後、正暦年中(990~994)多田満仲(源氏)は諸国の守護を歴任し、東国の押さえとして入間の里に館を構え家臣卜部大夫貞武に薬師仏の奉護を命じた。貞武は薬師仏を尊崇すること篤く、満仲に上申して宮殿荘厳具等に修理を加え什物を奉納したと伝える。
 この満仲(源氏祖)をめぐり次のような悲話を伝えている。満仲公老年にて、ひたすら三宝に帰依していたので、四男美女御前を書写山へ登らせ行く行くは出家させようとした。ところが美女は出家を拒んだので父入道満仲は大いに憤り、家の子藤原仲光に美女の首を討つように命じる。仲光は、討てとあるのも御あるじ、討申し上げるのも御あるじなので、我が子孝寿にしかじかの訳を申し聞かせ、御身代わりとして首を討つ。涙ながらに実検を窺うと、満仲公は一目見るなり孝寿とは気がつかれたが、親子の忠烈を感じ、宜しく計らえといい、その首を仲光に下げられた。仲光は一途な思いのまま美女御前を助けたので、美女も仲光父子の忠節を感じ、一寸八分の弥陀の黄金仏・御守刀を貞武に命じてこの宝殿に奉納したという。
 正平7年(1352)夏、天下に大旱魃があり、郷民はその窮状を幕府に上訴した。時の足利将軍は帰依していた光誉一空上人に命じて薬師如来の宝前に祈念させたところ、霊験あり大雨雷鳴し田畑を潤した。将軍は薬師仏の霊応を崇び聖の名誉を感じて、田畑二十五町賜わるという御教書を下付された。一空上人は上意を尊び伽藍を増営し初めて三福寺と号し、一山の体裁を整えるに至った。
 天正18年(1590)豊臣秀吉小田原攻めの折、兵火に罹り惜しくも大殿焼失した。その際薬師仏御尊体は自ら境内の老松の上に避難されたと伝えている。以来秘仏として崇められる。この際の兵火で多田・足利両家奉納の宝物・御教書・古誌等ことごとく焼失した。その後天明年間(1781~89)中興對誉上人が焼失した伽藍の再建を企て、15年を費やし寛政8年(1796)現在の本堂をを造営した。
 本堂薬師仏は鎌倉初期の秀作とされ、埼玉県有形文化財に指定されている。

(鼻田義郎記)

 *当WEBは、1,280×1,024(SXGA)を基本に設計してあります。   
他解像度のディスプレイでは正確に表示されない場合があります。