本文へジャンプ



「埼浄青会報」第1号平成9年3月31日発行より転載。


正覚山超勝院
廓信寺

由緒沿革

 当山の由来は、豊臣秀吉の天下統一の頃に遡る。秀吉の関東・後北条氏攻めの際、その功績によって旧後北条氏の所領を与えられた徳川家康は、天正18年(1590)に関東に入り江戸を本拠地とした。家康はその臣下を領地内の各所に配属する中、譜代の重臣であった高力河内守清長を岩槻城主(二万石)とし、併せて足立郡浦和郷の支配を命じた。駿河の田中城から岩槻及び浦和の支配者となった清長は、その家人・中村弥右衛門尉吉照を浦和の代官に命じた。浦和は自分の支配地の一つであっ
たにもかかわらず、清長は吉照に、実質的な支配を任せていたようである。吉照は、浦和郷の管理を自分に任せてくれた清長の没後、その厚恩に報い冥福を祈るために念仏堂を建立した。その後二代将軍秀忠の代、慶長14年(1609)鴻巣の檀林勝願寺の台蓮社光誉上人満霊大和尚を開山として招き、ここに当山の開創となった。寺号の「廓」は主君清長の法詮「醗恩院殿廓誉道鎮大禅定門」の中から、また「信」は吉照の逆蓋「厚徳院信誉道恵居士」からそれぞれ選取したものであり、当山の開創と因縁のある二人の武士の主従関係を現しているといえる。

 創建当時は念仏堂一つであったであろう堂宇は、現在では本堂・庫裏・客殿・諸仏堂等と、その規模も様変わりした。本堂及び客殿・庫裏は昭和32年の再建、また庫裏は再び昭和58年に改築、昭和64年には超勝門と鐘楼堂を建立、仁王門は創建以来のものであり、大正7年に大改修している。また本尊阿弥陀如来像は創建当時のもので県の重要文化財に指定されている。

 最後に現在の教化活動について略述すると、境内地にある学校法人厚徳幼稚園にて児童教化を行い、平成3年大本山増上寺吉水講廓信寺支部を開設し、月二回檀信徒を対象に和讃等の指導を行なっている。また毎月一回の別時会、年一回の団体参拝旅行等を通じ檀信徒教化に努めている。
(淤見善雄記)

 *当WEBは、1,280×1,024(SXGA)を基本に設計してあります。   
他解像度のディスプレイでは正確に表示されない場合があります。