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「埼浄青会報」第16号平成10年3月31日発行より転載。


賓積山白道院
大龍寺

由緒沿革

 当山はJR熊谷駅より東武バス葛和田行きに乗り、天王店下車徒歩「分の場所に位置する。近くに.は利根川が流れ河川敷きにはグライダーの滑空場がある。また古くから使われている渡船場もありこの地方がかつては宿場町として栄えていた時代を色濃く残している。因みにこの渡船場は現在でも細々とではあるが群馬県へと渡る人々が利用している。
 さて、このようなのどかな場所に位置する当山は、慶長十年(一六〇五)江戸時代の学僧幡随意上入によって.開創された。幡随意上人は、熊谷市・熊谷寺の中興の祖であり、また徳川家康の命を受け日本で初めてキリスト教の折伏に当たった僧侶でもある。
 当山は館林善導寺末とされ、本堂・不動堂・薬師堂・鐘楼・命体堂(念仏堂)・庫裏・客殿等からなる。本堂には本尊阿弥陀如来を中心にして、三十三体観音像(町指定文化財)を安置している。これは本堂の前にあった観音堂に安置されていたものであったが、大正五年(一九一六)お堂の老朽化が甚だしい為取り壊しとなり、以後本堂に移したものである。
 本堂は、文久三年(一八六三)落雷の為焼失して以来、庫裏を仮本堂としていたが、昭和三十三年堂本(一九五八)第二十九世達答俊定上人が再建し現在に至っている。
 歴代の住職の中では第十一世尋響弁秀上人が『易経』に詳しく、五代将軍徳川綱吉にその学識を認められ、将軍易経講釈の座に召されたことが文書として残っているまた第二十五世審轡察源上人は文久三年、『論語』に拠り「行余書院」と命名した寺子屋を開設し、近村の子弟に学問を教えた。その中には妻沼町出身で日本の女医第一号の萩野吟子がいた。
 最後に文化財であるが前述の三十三体観音像と幡随意上人の書かれた山号・名号・書状が残っている。
(宮島道孝記)

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